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人間失格【映画】2019沢尻エリカが演じる愛人太田静子と太宰治の関係

太宰治 人間失格 太田静子

 

豪華キャストで公開前から話題になっている映画『人間失格 太宰治と3人の女たち』

作品を鑑賞した人は、モデルとなった人物たちにも興味をもったりもしたのではないでしょうか。

この記事では、沢尻エリカさんが演じた愛人・太田静子と太宰との関係について迫ってみます。

『斜陽』のモデル・太田静子(愛人)

太宰治 三人の女 太田静子画像出典:wikipedia

29歳のときに結婚した太宰でしたが、32歳のときに歌人で作家の太田静子(当時28歳)と出会います。

太田静子

  • 生年:大正2年(1913)
  • 出身:滋賀県

開業医の家に生まれ、父の死後、兄が病院を継ぐが病気がちで、母親の判断で太田医院を閉院。一家は東京へ移る。

昭和14年(1939)、弟の同僚に熱心な求婚を受けて結婚。翌年に長女が生まれるが、生後1カ月ほどで肺炎で死去。その後、夫とは協議離婚をする。

静子は、夫を愛することができず、それが故に子どもを死なせたと後悔します。

兄の影響で短歌に親しみ、21歳時には口語歌集の「衣裳の冬」を刊行した静子は、その罪の意識を告白し、作品にしたいと考えます。

そんなときに出会ったのが太宰の小説でした。

(太宰を愛読していた弟・通の勧めで『虚構の彷徨』を読んだのが最初)

作品に感化され、罪の意識の告白を日記風に書くとともに、

小説を書きたいのでご指導願いたい。

という手紙を添えて太宰に送ります。

それに対する太宰の返事が、

お気が向いたら、どうぞおあそびにいらして下さい。

というものでした。悪いやつですねw

ほどなく、静子が友達と連れ立って太宰宅を訪問します(昭和16年9月)。

そこで太宰は静子に言います。

あなたは体がお弱いようですから、小説を書くことは止した方がいいでしょう。

むしろ、こんな日記風のものをこれからも続けてごらんなさい。気が向いたらときどき遊びにおいでなさい。

もしかしたらこのとき、太宰は彼女の日記風のものから、「何か小説のネタになりそうなものが見つかるかもしれない」と考えていたのかもしれません。

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逢瀬を重ねる太宰と静子

太宰と静子が出会った直後、太宰の意向で静子は堤重久と会う。

堤重久(1917~)

東京帝大の学生で、昭和15年(1940)太宰の門人となっている。

太宰が二人の交際を勧めて会わせたわけだが(昭和16年夏ごろ)、双方が交際を望まず、二人が会ったのはこの1回だけに終わった。

静子と堤重久を会わせた太宰の意図は不明ですが、もしかしたら自分と静子との不倫関係をカモフラージュさせるための作戦だったのかもしれません。

いずれにしても、この出来事は太宰と静子の距離を縮めることにつながりました。

※余談ですが、堤重久さんは1917年生まれで、現在もご存命。太宰の死後、京都に移り、京都産業大学で教鞭をとられました。

 

同じ年の暮れのこと。

12月15日に太宰は静子を電報で誘い、新宿で逢引き(デート)をしています。

ちなみに、この1週間ほど前、12月8日は真珠湾攻撃の日、すなわち太平洋戦争が始まった日でもあります。

その後、静子は母の目を、太宰は妻・美知子の目をそれぞれ盗みながら、文通や電報で連絡を取り合い、何回か会ったりもしていたようです。

(この辺り、正確な記録が残っておらず、どれくらいの頻度で会っていたのかはわかりません)

この間のやりとりを見る限り、太宰の方が積極的に静子を誘っており、別れを切り出した静子の手紙に対し、

いつも、あなたのことを思ってゐました。一度、お逢ひして、ゆっくりお話を聴きませう

と甘言を弄し、さらに、

僕は、もう君を離さないよ。・・・僕は今日まで、結婚の時にたてた誓いを一所懸命まもって来た。だけど、もうどうしていいか分からなくなった

と情熱的な言葉を投げかけています。

太宰のいう「結婚の時にたてた誓い」とは…

津島美知子(旧姓・石原)と結婚をする際、太宰は媒酌人を渋る井伏鱒二に対して「結婚誓約書」となるものをしたためます。

それのことを指しているんですが、一部引用してみましょう。

この前の不手際は、私としても平気で行ったことでは、ございませぬ。私は、あのときの苦しみ以来、多少、人生というものを知りました。結婚というものの本義を知りました。結婚は、家庭は、努力であると思います。厳粛な、努力であると信じます。

ふたたび私が、破婚を繰りかえしたときには、私を完全の狂人として、棄てて下さい。

こんなことを宣誓しておきながら、速攻で不倫関係に走っているわけですね^^;

その後、昭和18年(1943)に太田静子は母親とともに神奈川県足柄下郡下曾我村(現在の小田原市)の「大雄山荘」に疎開。

終戦までなかなか会えなくなる二人ですが(その間、太宰が仕事で熱海を訪れた際に、一度だけ会う)、以下の二首を太宰は手紙とともに送りました。

「ものおもへば澤の螢もわが身よりあくがれいづる魂かとぞみる」 (和泉式部集)

「五月雨の木の晩闇の下草に螢火はつか忍びつつ燃ゆ」    (読み人しらず)




戦後、再会するも、静子に冷たい太宰

戦後、太宰との再会を望む静子ですが、なかなか実現しません。

静子が太宰にすがろうとするのは、単純に愛していたからということもありますが、

  • 母が戦後間もなく病死し、その悲しさ、心細さ
  • 今後の生活の不安
  • 叔父に再婚を勧められ、縁談の話が来ていた

といったこともありました。

そして、今後の取るべき処遇を太宰にゆだねるようにお伺いを立てるも、その返事は、

静観したらどうか、11月には帰京するつもり、山荘を訪ねるのでゆっくり計画しましょう

という、どこか他人行儀なもので、それを読んだ静子は失望します。

上記は昭和21年(1946)の秋の出来事ですが、10月までに何度か手紙のやりとがあり、

11月中旬に帰京する。その時には知らせるので、金木へは手紙を出さないように

そうクギを刺し、手紙のやりとりはいったん終了。

その言葉どおり、太宰は11月に帰郷します(静子は縁談を断る)。

その後の流れは以下の通りです。

太宰と静子が再会するまで

昭和21年11月に太宰が帰京。人気作家として超多忙な日々を過ごす。静子への約束の手紙は出さず。

12月に入り、静子から催促の手紙が太宰のもとに届く。

「1月6日過ぎに三鷹の仕事部屋へ寄って下さい」という太宰からの返事が届く。

年が明けた昭和22年1月6日、3年ぶりの再会を果たす。

二人は吉祥寺の小料理屋「コスモス」に出向きますが、そこで太宰が言ったのは次の一言。

静子の日記が欲しい

今度書く小説のためにどうしても必要だ、小説が出来たら1万円あげる。

太宰は、戦後の農地改革による生家・津島家の没落をチェーホフの「桜の園」に重ね、小説「斜陽」を構想していました。

執筆にあたり、静子が書いていると手紙で知らせてきた「母の思い出の日記」(いわるゆ「斜陽日記」)をどうしても読みたかったのです。

下曾我に来て下さったらお見せします。

そう答えた静子の心中を思い図られますが、さまざまな想いが去来したことでしょう。

コスモスを出た二人は、玉川上水のほとりを歩き、そこで太宰はに静子を抱きすくめ、激しく接吻しました。

「斜陽」の大ヒット。太宰、静子との関係の終焉

昭和22年(1947)2月21日、「斜陽」執筆のため太宰は西伊豆の三津浜へ向かい、途中小田原で静子と落ち合い、日記を受け取ります。

それを元に太宰は「斜陽」を書き始め、同年の6月には脱稿。

同作は「新潮」7月号~10月号に掲載、12月に単行本で刊行し、大ベストセラーとなりました。

 

静子が手渡した「斜陽日記」は、小説の前半部分はほぼそのまま取り込まれ部分が多く、小説の「素材」というより「原型」といっていいものでしょう。

静子の「日記」は後に「斜陽日記」として出版され、現在も読むことが可能です。

この商品は現在取り扱いされていません

 

そして、西伊豆で執筆中の3月のある日、太宰が突如、静子の元を訪れます。

そのとき、静子は太宰に告げました。

妊娠しました。

少し間をおいた後、

心配しなくてもいい。静子はいいことをした

と喜んだといいます。

しかし、本心としては困惑もあったでしょう。いや、むしろそっちの方が大きかったかもしれません。

同じ頃、

  • 妻の美知子は、3月30日、次女「里子」(後の作家・津島佑子)を出産。
  • 3月27日、翌年太宰と心中する奥名(山崎)富栄と知り合う。

そこへもってきて、静子の妊娠です。

その3月の下旬、静子は太宰から次のような内容の手紙を受け取ります。

昨日帰宅したら、妻美知子が手紙のことなど全部を知っていた。お産も近いので、手紙も電報も、しばらく、よこさないほうがいい。

なかなか身勝手な言い分ですが、一人、下曾我の山荘に残され、太宰の動向もわからない身重の静子は不安でいっぱいだったでしょう。

その後、今後のことを相談したいと偽名で連絡をとった後、5月24日に静子は弟の通とともに三鷹の太宰のもとを訪れました。

結論からいいますと、太宰と静子が会ったのはこのときが最後となりました。

このとき、太宰にとって静子は、あきらかに「気が重い」存在になっていたのでしょう。

太宰行きつけのお店をはしごしますが、

  • 静子は太宰の眼差しに、以前にはない冷ややかなものを感じる
  • 太宰と合流後、すぐに2軒目の店に移動するが、太宰は静子を避けるように、通とばかり話をした
  • 4軒目を出た後、最後に残った太宰、静子、野原一夫(編集者)は知り合いの画家・桜井浜江の家に向かうが、その道中も太宰は静子に一言も話しかけなかった

という感じで、あきらかに太宰は静子を避けています。

ここまであざといと誰でも気づくと思いますが、そんな太宰の態度を見た静子は、当初予定していた相談をすることができず、そのうち「相談する気持ちもなくなった」と言います。

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太田治子の誕生と「斜陽」の一万円

二人が会った最後の日以降、太宰からは静子に一切連絡を取らなくなります。

その後、同じ年(昭和22年)11月12日に下曾我の大雄山荘で女の子(後の作家・太田治子)を出産しました。

女児誕生の3日後、静子の弟の通が太宰のもとを訪れます。

  • 子の命名
  • 認知

この2つが通がもってきた用件でした。

太宰は承諾し、和紙に毛筆で以下の「證」をしたためます。

證  太田治子(はるこ)

この子は 私の可愛い子で 父をいつでも誇って
すこやかに 育つことを念じてゐる

昭和二十二年十一月十二日  太宰治

「治」の一字を与え、「治子」としたわけですね。

また、静子への伝言として、

お金のことで困るようなことがあったらいつでも言ってくるように。

とも言ったそうで、実際にその後、静子から要請で再三お金を送金します(手紙を含む実務を行ったのは、愛人の山崎富栄)。

また、静子から日記を借り受ける際に「小説が出来たら1万円あげる」とも言っていましたが、これは支払われていたようです。

下曾我へ帰った母(注:静子)は、ここで産みたい、太宰が来るのを待とうと思った。が、太宰から連絡はなかった。

7月30日に、<新潮>7月号を買って「斜陽」第1回を読み、自分の日記が役に立っているとよろこび、太宰に手紙を書く勇気が出て、約束の1万円もお願いできると元気が出た。

– 直ぐに電報が送られてきた。コンゲツチュウニ 一マンオクル アンシンセヨ

出典:太田治子・著「明るい方へ」

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戦後間もない混乱期で、激しいインフレで紙幣価値の変動も大きかった当時。

1万円が今の価値でいくらになるのか厳密には測りかねますが、大金であることは間違いありません。

(昭和22年年の銀行員大卒初任給が220円だそうで、ざっくり現在だと100倍~200倍くらいの間くらいの計算になる感じでしょうか)

ちなみに、流行作家となった太宰治の昭和22年の所得税は、

所得額21万円、税額11万7千余円

だったようです(高額の税金の支払いに頭を悩ませていたといいます)。

生前、治子とはついに会わなかった太宰

太宰は山崎富栄とともに、昭和23年6月13日(日)の深夜、三鷹の玉川上水で入水心中します。

太田静子との子、治子が生まれてから半年ちょっと後の出来事ですが、その間、太宰は静子・治子の親子には会いませんでした。

(太宰に近しい編集者・野原一夫は協力するので、会うように勧めたが、富栄への露見を恐れて太宰は話に乗らなかったようです)

 

太宰の死後、遺産相続の問題が生じた際、津島家は井伏鱒二と相談し、静子に10万円を渡したとされます。

(「斜陽日記」は静子の元に返され、代わりに静子宛ての太宰からの手紙を井伏に渡す)

その後、女手一つで治子を育てた静子は、昭和57年11月24日、肝臓がんにより逝去します。







映画「人間失格」では沢尻エリカが静子を演じる

映画の予告編で、静子を演じる沢尻エリカさんが「私、愛されない妻より、ずっと恋される愛人でいたい」と言っています。

しかし、実際の太宰治と太田静子の関係を時系列でたどってみれば、そんなきれいごとで済むような間柄、関係ではなかったことがよくわかるでしょう。

(もちろん、映画は事実を元にした上でのフィクションですので、実際と大きく違っていても問題はないのですが)

太宰役の小栗旬さんとの激しい濡れ場もあるそうで、そちらも話題になりそうですね。