芥川龍之介の初期の頃の代表作のひとつ「鼻」。
『今昔物語』の「池尾禅珍内供鼻語」および『宇治拾遺物語』の「鼻長き僧の事」を題材としていることで知られる短編で、発表時に師匠である夏目漱石からも絶賛されています。
芥川龍之介「鼻」を絶賛した漱石は『今昔物語』を読んでいなかった?
あなたのものは大変面白いと思います。落ち着きがあって巫山戯(ふざけ)ていなくって、自然そのままの可笑味(おかしみ)がおっとり出ている所に上品な趣があります。それから材料が非常に新らしいのが眼につきます。文章が要領を得てよく整っています。敬服しました。ああいうものをこれから二三十並べて御覧なさい。文壇で類のない作家になれます。しかし「鼻」だけでは恐らく多数の人の眼に触れないでしょう。触れてもみんなが黙過するでしょう。そんな事に頓着しないで、ずんずん御進みなさい。群衆は眼中に置かない方が身体の薬です。
こちらは、有名な漱石が芥川に送った手紙の中の言葉です。
めっちゃ褒めてます。「敬服しました」とまで言ってます。
で、気になるのが、「材料が非常に新らしいのが眼につきます」ってところ。
この手紙を評して、文芸評論家の村松定孝は「漱石が材料が新しいといっているのは、おそらく『今昔物語集』を読んでいなかったから」と指摘しています。
漢詩から古典、英文学まで精通していた漱石が『今昔物語集』を読んでいなかったというのもにわかに信じがたいところですが、古典を題材にするのはすでに行われてたことだし、やっぱ読んでなかったか、忘れてたかのどちらかなのかもしれません。
冒頭で記したように、芥川龍之介の「鼻」は『今昔物語』『宇治拾遺物語』の挿話を題材としています。
ぜんぜん新しないやん、って話ですよね。
芥川龍之介「鼻」のあらすじ
池の尾(現在の京都府宇治市辺り)の禅智内供(ぜんちないぐ)という僧侶が小説の主人公。
内供は天皇に仕えるえらいお坊さんで、その高僧である禅智内供が自分の外見のことで深い悩みを抱えている。
それは、自分の鼻がめちゃくちゃ長く、それにより人々に嘲笑されているということ。
あるとき、弟子の一人が「鼻を短くする方法(=お湯で鼻をゆで、人に踏ませる)」をゲットしてきて、それを実践。
めでたく内供の鼻は短くなる。
それでめでたし、めでたし、というわけではなく、今度は普通の大きさになった内供の鼻を見て、またまた人々は笑う。以前より笑う。
それはたんに見慣れないからというだけではなく、内供の鼻が人並みなったのを見て、人々はなんとなく物足りなくなったから。
そんな人々の身勝手さに腹を立てる内供だったけど、ある日目ざめると、鼻は元通りの長い鼻になっていた。
「こうなれば、もう誰も笑うものはないにちがいない」と内供は喜び、安心する。
なぜ正常な長さになった鼻を見て人々は笑ったのか
あらすじで紹介したように、禅智内供の鼻が短くなったときに人々は、それ以前より、つけつけと笑うことになります。
このくだり、『今昔物語集』にはありません。つまり、芥川の創作です。
「人間は誰も他人の不幸に同情するが、不幸を切り抜けると、もう一度その人を同じ不幸に陥れてみたい気になる。それは傍観者の利己主義のためだ」と著者自らが語っています。
まとめ